こどもの日を知覚しなくなった。
大人になったということなのだろうか。
「連休だ、連休だ。」とは年がら年中叫んでいるが、「こどもの日だ」とは叫ばなくなった。
スーパーで積み上げられていた柏餅たちを見て、初めて思い出したのだ。
「今日は僕の日だったんだ」と。
誰が見てもこどもだった頃、5月5日にはどこからともなく兜が出てきて、しかし自分は触れず、異様な雰囲気を居間で一日醸し出していた。「端午の節句って言うんだよ」と教養を備えさせようとする声が聞こえて、午後には遊園地に連れて行ってもらえたり、好きなものを食べられたりしたものだ。こう思い出すと、当時は恵まれていたんだろうなと思う。しかしそれも小学校低学年ぐらいの話で、そういう特殊な日感は年々薄れていった。
それでも「5月5日は俺たちの日だ」とは思ってたんじゃないか?
昨日、団地の狭間にあるタイプの公園で一休みする機会があった。小学生くらいの男子たちがギラッギラの自転車を何台も停めて、砂場をいじくったりブランコを振ったり、団地の入口の屋根に2階から乗って、漫画のように黄昏たりしている。今時のこどもは公園でもゲーム機で遊ぶんじゃないかと思っていたから、そうやって駆け回りはしゃげていることが嬉しかった。なんだかこの言い草も老人っぽい。
今のこどもはコロナ抜きにして、ちゃんと楽しい毎日を送れているか?
こどもの頃の日々時間って、本当に貴重で大事だと思うよ。
こどもは「子供」と変換されるけど、こどもかせめて子どもにしたくなる。
子供の供は生贄として供えるから、って知識をどこかで耳にしたけど、果たして正しいんかな。間違いだとしても、なんか字面が硬いから。
大学で教職を取っていたからわかることですが、教育現場では「子供」ではなく全部「子ども」となっていまっせ。
柏餅のラベルの隅に「つぶあん」「こしあん」と書かれていて、柏餅って中にあんこ入ってたっけと思ったレベルだ。だいぶこどもからは離れてしまった。
華の高校2年生からも5年以上経ってる。それだけでビビる。
路上の蟻とか、空中の羽虫の群れとか、こどもの頃はわざわざ探していたはずなのに、一体いつから目を背けて、いないものとして扱うようになってしまったんだろう。
大人になってよかったことって、あるんだろうけど、わざわざ振り返ってみるとあんまりない。