さくらばのダベリバ

頑張って生きてます。ダベるだけで読者増を目指す、チャレンジブログです。

泥と川と紙を撫でる

 今日は夜勤だから、睡眠時間を調節した。老爺のように5時代に目を覚ましたのを、頑張って目を伏せて、「さ」のつく単語を連想する入眠法を試した。別にさくらばだからではないけど。YouTubeの何かの動画をバックグラウンドで流して、気がつくと12時になっていた。

 

 プライベートブランドの安い食パン2枚にはちみつをかけ、トースターに込める。バナナをちぎる。3回に分けて食べていたプレーンのヨーグルトの、3回目を取り出す。冷蔵庫が空き始める。1週間前に作ったサラダチキンは、流石に怪しい風味がした。次に鶏胸肉が安くなるのはいつだろう。来週の水曜日?

 カランと投げ出したヨーグルトの容器をすすぎ、プラスチックゴミの箱にもう一度投げる。最近の毎日のように、今日も寝溜めても脳がぐるぐると気持ち悪がっていた。休日とはいえ止まってられないのに。6月30日から、「あと何日で今年が終わるのか」が、今日は182という数字がこびりついて離れない。Twitterを開くと、豪雨による熱海の土砂崩れの、凄まじい動画が飛び込んできた。卒業を来週に控えたあの時の、3.11のテレビ画面が蘇る。いっとき雨があがった外で、選挙カーが最後の足掻きを聞かせてくる。

 

 私は何かしら一歩進める気がして、昨年買ったきり開けていなかった、宇佐美りんさんの『推し、燃ゆ』を雑多な部屋から探して、手に取った。巻末からペラリとめくると、125という頁。「これは読める」と意気込んで、ようやく冒頭を視界に飛び込ませた。

 

 自分より年下の、芥川賞受賞。そういう賞を取った作品を書店でぱらぱらと覗くたび、厳格で近寄り難い文語に覆われた滝にお椀にした手を突っ込んで、あふれこぼれる大半の中からごくわずかを掬って、そればかりを理解するしかないんだ、という感覚を得ていた。だから彼女の作品も、どれほどわかりづらく高貴な文章なのだろうとうっすらにやけていたが、そんなことはなかった。「これでいいんだ」とさえ思った。インスタとかラインとかパスモとかストーリーとか、そういう現代用語を出していいんだ。明朝以外のフォントとか、顔文字さえも、使っていいんだ。三百、四百数ページも書かなきゃいけない、なんてことないんだ。想像の芥川よりも、その川はだいぶ穏やかだった。

 でもそんなとっつきやすさを放ちながらも、日々の事物へのあらゆる知覚に浸って、拾い上げて、同じ人生を生きるはずのない読む者の、琴線に触れる言を出す。ああ、だから芥川なんだな、と感嘆した。同時に、単調にさせない語尾とか、時系列の流し方をチェックして、及びたいな、とも思った。久々に数メートル身から離したiPhoneで、「身じろぐ」と「床ずれ」だけ意味を調べた。彼女の一つたりとも見落としたくなかった。

 トイレにまで本を持ち込むなんて数年ぶりで、挟まれた真っ青な栞紐に驚いて、久々にわかりやすい才能に触れ、薄っぺらい茶色のカバーに包まれた、久々の文庫本を閉じる。2時間程度のことだった。部屋に繋いで放置したiPhoneが、通知を溜めて鳴いている。勝手に家族LINEだと思い込んでいる友人たちとのLINEグループは、昨日から丸一日動いていなかった。

 

 

 なーんか急に影響受けたみたいになってしまいましたね。許してください。細かなことに気づき、何かに記しておくことは大事だわよ。

 くそ、またタイミング悪く頭痛くなってきたぜ。頭痛くなっていいタイミングなんてねえけどな! 夜勤行って、オロナミンC注いで寝て、明日は選挙行かねば。あどぅ〜。唐突な幼児退行。