さくらばのダベリバ

頑張って生きてます。ダベるだけで読者増を目指す、チャレンジブログです。

テレビに見る社会の障害観

 ここ数日のダベり、ひどかったなあ。寝ながら書いてたろ。実際昨日の夜中の投稿は、半分寝ながら書いてました。

 

 

 パラリンピックの開会式を見ています。NHKの放送枠が1時間で終わってて、パラリンピックは開会式の枠って短いのかと思ったらEテレでちゃんと3時間ありました。ちゃんと長い。

 

 メディアの絡まない、パラリンピックそのものだけを見ると、しっかりオリンピックと同じレベルのスポーツの祭典です。

 ……何が言いたいかって、パラリンピックのニュースとかテレビ番組とかって、道徳的側面を押し出しすぎというか、「健常者の学びのためのもの」って感じがして、気持ち悪くなってしまうんですよね。

 急に小学生の現地観覧とか持ち出したり、オリンピックの競技体験はさせてくれないのに、車椅子のバスケとかだけは子どもに体験させたり。テレビの特集はどれもこれも「この選手はこんな障害を持ちながらこんなに頑張ってるんですよー」って。

 番組をやるなとは言いませんよ。オリンピックで終わりじゃない、パラリンピックも同様に輝かしいのだと伝える必要がある。ハンディキャップをものともしない躍動の凄さを知ることは大切です。でもあんたら(メディア)、オリンピックの時はそんな特集しなかったじゃん。

 24時間テレビと同じで、「こんな障害を背負ってもこんなに健常者並みに頑張って……」って、持ち上げ方がやったら特殊だから、「わあ♡ これは応援しなきゃですね♡」と教育的になって、視聴者のパラの見方を「健常者の世界のあくまで下のもの」に固定する。単純な応援ができるところに涙を含ませようとする。「感動」の二文字のどこかに、憐憫の二文字が確かに在る。

 オリンピックと同様何も難しいこと考えず……というか、只々熱いスポーツとして観戦するのが、いちばん健全なんじゃありませんかね。

 

 これって結局、日本社会が今でも障害に不寛容だからだと思うんですよね。

 今週末の金曜ロードショー風立ちぬだそうです。風立ちぬでは、当時の眼鏡をしている=飛行機に乗れない男性の人権のなさたるや、ありありと描かれています。

 私をはじめ多くの人が患っている近視だって、レンズなしでは生きられない障害の一つです、が、眼鏡に対する人々の色眼鏡は、現代になってようやく取り払われてきました。

 その一方で、他の障害への色眼鏡は健在なのです。作中、大正時代の人間が眼鏡男を差別したように、令和時代の人間も心のどこかで、障害者を差別しているのです。自分とは違うのだと。ああはなりたくないと。でもそれは悪い思考だともわかっていて、決して口には出さず、「差別はよくないよね♡ みんなで障がいのある方々を応援しよう♡」と。不寛容の反動で、「我々は寛容なんだ」と歯の浮くセリフを並び立てる。

 口が沈んだままでは、歯は浮いたままだってのに。

 

 そうやって私は、メディアのパラリンピックの取り上げ方に気持ち悪さを覚えてしまうのですが、その報道も悪いことではないのでしょう。淘汰されるべきは私なのでしょう。しかしこの「行きすぎた特別視」が正しいのか、私は疑問を持ち続けていたいなあと、思いますね。

 

 

 最近の記事との差がエグい。8月も終わりが見えてきてしまった。嗚呼。